写真家ゆりあ氏の開催する個展「ふともも写真の世界展」に行ってきた。
4月26日から5月15日までのあいだ、都内の写真館でこじんまりとやっている。写真館は小さいとはいえ、入るまでに順番待ちしてるほどの盛況ぶり。客層は年齢は20代〜30代が中心だった。
「1000脚ものふとももに囲まれるアート空間」というのが、この個展のキャッチコピー。確かに、壁一面にふとももに焦点が当てられた写真に囲まれると、圧巻としか言いようがなかった。
ふともものフォーカスは思春期男子の目線
「これヤバい!ヤバい!」と3人組の男性らが、ふとももの写真を見ながら声をあげている。
ヤバいといっても、性的興奮を覚えるようなエロさとは違う。見ちゃいけないものを見ているような。思春期の頃に女子を眺めていたような目線のように感じる。
男なら誰しも一度は似たような経験があるかもしれない。女子のふとももをコソっとのぞき見ていたあの時の記憶。
学校の休み時間。ふと見てしまう彼女のふともも
学校の休み時間。気になっている彼女をチラッと見ると、彼女は机の上に座り、脚をブラブラとさせながら友達とおしゃべりをしている。
そして自然と目線がふとももにいってしまう。見ていることが本人にバレたら恥ずかしい。見ちゃいけないけど、気になって見てしまう。だって、スカート短すぎて、あと少しでパンツが見えそうだから。
初デート。彼女の顔をそらすとふとももが
彼女との初デート。待ち合わせ場所で待っていると、白いワンピース姿で彼女が現れる。いつもは制服姿しか見ていないだけに、新鮮な彼女の私服姿に目を奪われる。気恥ずかしいくて、顔を直視することができない。
目線を逸らし、下を向くと彼女のふとももに目がとまってしまう。もう刺激的過ぎて、この後のデートプランをすべて忘れてしまう。
・・・
これらは僕の妄想だけど、たった写真一枚でそんな思春期の物語を脳内で再生されそうだ。
見ちゃけいないものを見ている。見ていることに気づかれたら恥ずかしい。童貞力というか、思春期特有の追体験がこの写真の魅力だと思う。
ふとももを見に来る女性の気持ちとは?
このふともも写真館には意外と女性客も来ていた。出版されている「ふともも写真集」の購入者の半数は女性らしい。
「これとかイイね」「えー!すごーい!」と女性2人組みがふとももの写真を見ながら声をあげている。
女性は中学くらいから徐々に身体つきが成長し、周りの男から性的対象として見られる年頃となる。当の本人は無自覚ながら男の目線を奪う存在。
高校くらいからは、自身が性的対象として見られていること自覚し始める。スカート丈を短くし、イケてる女子として、ふとももをセックスシンボルとして剥き出しにする。
この写真館を訪れる女性たちは、そんな若かれしき当時の思い出を振り返っているように思えた。自分がこんなにも男を引きつける強力な武器を振り回していた「無敵感」になつかしさを感じているように思う。
周りの男からふとももへの視線を感じつつ、あえて見せつけておいて、絶対に触らせない。性的に誘っておきながら、性的なものを頑固として拒絶する。
この矛盾する行為を重ねるにつれ、男の性的な目線を理解し、女としての魅力的な振る舞い方が磨かれていくのだと思う。
ふとももは性器に近いから魅力的?
ふとももの素晴らしさとは一体何なのだろうか。短いスカート丈から露出されるあの白くて丸みを帯びた物体は何なのだろう。
胸やお尻と同じように、人は丸みを帯びた物体に魅力を感じてしまう。でもなぜ、脚の中でもふとももにあれだけの丸みが帯びるようになったのか。
骨盤を支えるという役目だけなら、別に丸みを帯びる必要はないのではないだろうか。そんなことを悶々と考えているさなか、その答えは2ちゃんねるのスレに書き込まれていた。
ふとももはケツと並んで性器への接近ルートだから神社で言えば参道にあたる。
「なんだか素晴らしくてありがたいものがその先にある」
と男に思わせるように進化してきたんだ。真ん中は神様の通り道だから、敢えて太ももを通ってお参りするわけだな
そして鳥居という結界が、パンツに相当するわけか
なるほど。なんともオシャレな文化進化論だ。
つまり、ふとももは性器へと続く入り口だから、その扉を意中の男性に開けてもらうために、性的魅力を放つ魔法のようなもがふとももに振りかけられているってことなんだろう。
こう解釈をすると、なんとなく納得はいく。ただ、生物学的観点での真相は定かではないが。
ふとももの写真はエロ?アート?
これはエロなのか?アートなのか?少女のふとももが好きで、ふとももの写真ばかり集めていたら、ただの変態と貶されるけど、この写真が面白いのは、一貫した哲学で撮り続けることによりアートとして周りから評価されていること。
少女のイヤらしい写真を世の中に出すと、フェミニストや児童ポルノ規制推進派は、「少女の未熟さを商品化するな」と、こぞってこの言葉をよく口する。
そういった批判が仮にあったとしても、少女の「イヤらしさ」を「綺麗」なものとして写し出し、アートの領域へと昇華させたことで、頭の固い大人たちを黙らすことができそうだ。(モデルは18歳以上なので正確には少女ではない。少女のように写しているだけ。)
この写真がアートとして見えてしまうのは、今まで見てきた思春期の頃の思い出ー学校、教室、校庭、プールサイド、鉄棒、机、イスなどの舞台装置を一緒に写真に映すことで、ふとももの持つ性的な「イヤらしさ」を青春という名のフィルターで中和させている。
エロじゃなく、アートとさせるには、その写真を見た人に何を想起させるか。つまり、ふとももの写真を見て「この女性とヤリたい」とセックスへの延長を連想させるのではなく、ノスタルジックな何か、を思い出させることこそがこの写真の本質なんだと思う。
最後に
僕はそこまでのふとももフェチというわけではなかったが、この個展を見に行ってふとももの良さを改めて痛感した。
ふとももフェチな人はもちろんのこと、ふとももにそこまで興味がない人でもあっても、思春期の頃の思い出を蘇らせるてくれるので、日々の日常に疲れた人は行ってみると面白いかもしれない。